逆転人生物語

🚑 急げ!何よりも誰よりも!【第8話】

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こんにちは、室賀博之です。

 

急いで病院へ駆けつけると
すでに父と弟、妹が来ていました。

「容態はどうなんだ?!」

尋ねる私に父はオロオロして
話になりません。

「危ないみたいだ。まだ医者から詳しい
話は聞けてないんだ!」

すぐさま弟が答えます。

ショックで膝から力が抜けそうに
なるその時。

病室から頭を包帯でグルグル巻に
されてタンカに乗せられた母が
出てきました。

意識は無く、その顔は青白く、
片目は薄く半開きで口も半開き。

(これはもうダメじゃないか?!)

(あの表情は普通じゃない・・・)

縁起でもない考えが脳裏をよぎります。

ほどなくして、担当医から詳しい説明と
手術の許可が求められました。

すぐにでも手術しないと
助かる可能性が少なくなること。

手術が成功したとしても
合併症の危険があり予断を許さないこと。

そして、

それらをクリアしても相当な確率で
脳に甚大な障害が残ってしまうこと。

これらを聞かされました。

考える余地などありません。

私を含め、家族全員ですぐさま
手術に取り掛かってほしいことを
告げたのでした。

手術室へと運ばれる母。

私はといえば、悔しくて情けなくて、
廊下のコンクリートの壁を右拳で
思いっきり殴りつけました。

拳の感覚がなくなるまで
何度も何度も殴り続けました。

やりきれない思いを何かに
ぶつけたかったのです。

 

手術自体は成功しました。

しかし全く予断を許さない状態です。

会社にはとりあえず数日休む旨を
告げました。

 

◯◯◯低位株投資クラブの第1回例会も
数日後に迫っていましたが、それどころ
ではありません。

H氏に電話で連絡を取り、
第1回の例会は欠席させてもらうことに
しました。

目を覚まさない昏睡状態が続きます。

脳内に出血したテニスボール大の血液は
取り除いたものの、圧迫されていたため
意識が無く自分の意思で呼吸が出来ません。

喉を切開して人工呼吸器が
挿入されていました。

今日は良くなっているんじゃ?

意識が戻っているんじゃ?

仕事帰りに毎日見舞いました。

 

結局、次々と合併症を併発して、
10月28日午後1時30分。

母は帰らぬ人となりました。

一度も目を覚ますことなく
逝ってしまったのです。

それは、
倒れてから20日後のことでした。

 

初七日も滞りなくすませた私は
一人、母の墓前に跪きました。

あまりにも申し訳なかったからです。

大した親孝行もできないまま
一人逝かせてしまった。

それにお金の苦労も・・・

これは後に分かったことですが
身内の恥を晒すようですが
この後に続く大事なことなので
ここに書きます。

母には個人的に借金があったのです。

それは、私たち兄弟がまだ子供時分の
頃からのもの。

私たちが中学や高校、そして弟が大学に
進学するための費用や生活費。

仕事嫌いで収入がとても不安定だった
父の代わりに陰で工面してくれていた
のでした。

どうして相談してくれなかったのか?

それは私と弟がそれぞれ結婚し、
家庭も持ち、子供もいるので
迷惑はかけたくないとの思いだった
のでしょう。

思えば母が倒れる前の月。

長男が2歳になる誕生日の一週間前。

母から電話があり、

『◯◯ちゃんへお誕生日プレゼントを
買ってあげたいんだけどお金が無くて…
ごめんよ…』

と言われたのを思い出しました。

その時は「いいよ、いいよ、気にしないでよー」
なんて言っていたんですが、まさかこれほど
お金に苦労していたとは。

長男の私は一体何をしていたんでしょう?

もっと母の状態を
突っ込んで考えてみるべきでした。

 

私は母の墓前に誓いました。

必ずや成功して億の字が印字された
預金通帳を必ずや供えにくることを。

もちろん、お金だけが全てではないことは
分かっています。

でも、お金があれば、しないで済む
苦労がこの世にはごまんとあります。

お金で苦労して苦労して逝ってしまった
母に、それがせめてもの供養になると
固く信じて。

 

一ヶ月後。

第2回目の低位株投資クラブの
例会の日が来ました。

他のメンバーは2回目ですが
私は初めてなのでちょっと緊張ぎみ。

主宰のH氏が見回して私の名前を
呼びました。

「室賀さんは来ているかな?」

返事をして前へ向かった私に
H氏は、こう言うのでした。

「次から・・・

次回へと続きます。

室賀博之

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